【第2話】風のあるほうへ。原チャリとバイクとローレル

パニック・メンタル

前回、「電車は乗れない。でも車は運転できる」という不思議な状態の話を書きました。

思い返すと、もっと前から、私は「自分で動ける移動手段」に助けられていた気がします。


高校の通学と、原チャリ

高校生のころ、通学は「駅まで自転車 → 電車 → バス」でした。

思春期のせいか、高校三年生のころから学校へ行き渋り、朝寝坊は当たり前。親に車で学校へ送ってもらうことも日常茶飯事でした。自分で行く日は原チャリ。

電車やバスに乗る日もあったけど、学校の休憩時間に教室へ入れるように(授業中に入るのは嫌だったので、休み時間に紛れて席へ)時間調整のために、バス停のベンチでずっと座っていることもありました。

何が嫌だったのかは、もう忘れました。
一応進学コースで、三年間同じクラス、同じ担任。飽き飽きしていた日常だったのかな。授業中も窓の外の景色ばかり見ていました。

話がそれましたが、親の車や自分の原チャリで行くのは、精神的に解放感を感じていました。思春期の鬱積した感情に、風を感じたかったのかもしれません。

原チャリは風を感じられる、いい相棒でした。


専門学校と、バイクの時代

専門学校へも、ほとんど車で行っていました。

そのころ、親の仕事は順調で、私は中型免許を取って、友達に借りた400ccのバイクにまたがって街乗りしていました。

周りの男友達が車の運転免許を取るまではバイクに乗っていたので、よく六甲山へタンデムしていました。私はその頃は後ろに乗せてもらい、スリルと風を味わっていました。

男友達が車の免許を取ったので、私はその人が乗っていた400ccのバイクを貸してもらえることに。

でも、数ヶ月で車と接触して、バイクは辞めることになりました。


(脱線)バイク事故の話

私は信号待ちをしていて、青になったので発進したら、路駐していた乗用車が急に出てきて接触。

乗用車の運転手は転んだ私を喫茶店へ連れて行き、
「男性のバイク運転手なら避けられていた。避けられなかったあなたも悪い」
と言いました。

まだ未成年の私は怖くて、うなづきました。

そのことを父に言うと、父は激怒。
その運転手を家に呼び出し、その人は玄関で土下座しました。私は病院へ。

どこの病院へ行っていいのかわからず、接骨院?のようなところで捻挫と擦り傷を治療してもらいました。

でも若い私は、傷が治ったら病院をさぼり、指定された日に行かず、何日か遅れて行ったら医師は激怒。

「大した傷ではないけど、相手側はあなたが治るのに何日かかったかで保険料が変わる。相手のことも考えなさい」

と言われ、私は医師が怖くて、反省もして号泣。…また話がそれました。


ローレルと、「風」と「自分で止められる」感じ

父は「もうバイクは辞めなさい」と言い、私も快諾しました。

その代わりに父から車を与えられました。日産のローレル。

路駐も当たり前の時代。専門学校へローレルで行き、路駐して、学校が終わったら彼氏の家へ行って一緒に帰るという生活でした。

門限の23時に帰宅できるように、彼氏の家から車で約1時間かかる自宅まで急いで帰る。

何をしていたわけでもなく、ただずっと一緒に居たかった日々。

今思えば、性格なのか、自律神経が乱れていたのか、離れるのが不安だったのかもしれません。だから遅い時間まで一緒にいる。朝は起きられない。規則正しい生活なんてしていない。

だから数年後に、ドカンと症状が来たのかもしれない、とも思います。


そして「電車は乗れない。でも車には乗れる」

そして「思春期パニック症候群」と診断されて、電車に乗れない。でも車には乗れる。

このころの私は、なぜそうなのかはわからなかった。

ただ、風を感じて、自分で動かせて、必要なら止められる。
そういう感覚が、私には大事だったのかもしれません。


安心材料として😀

安心材料として。

その数年後には、ひとりでアフリカへ行ったくらい回復しています。
今も電車、バス、公共交通機関、仕事で毎日乗っています\(^o^)/

今思えば、その頃の私は“回復するために頑張る”というより、別のことで必死でした。

回復のコツ?みたいな話を期待されると困るんですが、当時の私は別の意味で必死でした。

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